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宮崎市佐土原町の内科医院です。

消化器・胃腸科が専門で、胃カメラや大腸内視鏡、腹部エコーでは鎮痛・鎮静剤を使い、苦痛の少ない検査を心がけます。
循環器や呼吸器、感染症やアレルギーも診療します。

また、介護支援専門員が介護や認知症のご相談に応じます。
なお、禁煙補助薬や男性型脱毛症治療薬も処方します。
平日8:30~12:30
14:00~17:30
水・土曜  8:30~12:30

(なお、午前中 8:30~9:00に胃カメラや腹部エコーなどの検査が入っている場合は、外来診療の開始は午前 9:00からになります)

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 父が亡くなり、3ヶ月が過ぎました。新型コレラの感染拡大もあり、ばたばたと月日は過ぎてゆき、父を一番よく知り、最も影響を受けた私ですら父との思い出は徐々に薄れていきます。私事で恐縮ですが、父の生い立ちと父との思い出をここに残したいと思います。
 覚悟はしていた覚悟はしていたもののその時はやはり突然来ました。息はなく父の顔は動画の停止ボタンを押したかの様に止まっていました。しかしその父の顔は穏やかで少し微笑みかけたところで静止していました。私はこれでいくらか責任を果たしたかなと安堵すると伴に人の命の儚さを固まって行く父の顔を見ながら改めて思い知らされました。
 父は鹿児島県指宿市山川町で生まれ、高校まで指宿で過ごしました。熊本大学医学部で学生の頃から微生物学教室の六反田教授に気に入られ、インターンを終えると間もなく微生物学教室に入りました。研究内容は詳しくは知りませんが、ポリオの研究をしていた様です。父は38歳で大学を辞め、都城の保健所長になりました。父を可愛がってくれた六反田教授が学長になられ、微生物学教室の教授が新しく代わったのでした。その時私は子供ながらに父はさぞかし悔しい思いをしたのだろうなと思っておりましたが、後に父にその頃の事を聞くと、熊本を思い出したくないくらい研究は辛かったと話しておりました。父は5年間都城保健所長として勤めた後、1975年の夏から県の保険衛生課に入りました。そして3年後の秋、昭和53年9月6日、父は46歳の時、佐土原で開業しました。
 令和3年11月29日午後1時21分、父はあっけなくこの世を去りました。私にとっては個性的で、実に存在感のある人でした。良くも悪くも私に色んな影響を与えてくれました。父を一番知る私が父を褒めてやらねばと「よう頑張った」と声をかけながら、今度は自分の番かと少し気の引き締まる思いがしました。佐土原に向かう霊柩車の中で、父と一緒に診療した日々が思い出されます。
 父はほとんど臨床経験がないまま開業し、毎日が緊張の連続で、「病気は患者さんが教えてくれる」は父が言うと本当に真実味がありました。土曜日の夜だけは家に帰り、あとは診療所に住み込み日曜日も24時間体制で診療しておりました。父の机の引き出しに、セルシンとインデラルを見つけ、どういう時に使うのか聞くと、救急車を受け入れた時と聞き、開業医の孤独な戦いが想像されました。
 平成10年5月、私は父の後を継ぎました。翌平成11年には大改築の後、病棟を療養型病床にし、2000年春に介護保険制度が始ると、病床を介護でも使える介護療養型病床にしました。しかし、10年後には国の医療費削減のためのベッド削減政策の波は有床診療所にまで及び2010年には病棟を閉鎖せざるを得ませんでした。父は私を咎めることなく静観してくれました。
 2004年8月、父は心室粗細動で倒れました。幸運にも、県立宮崎病院近くの献血ルームで倒れたため、そこの看護師さんに救急蘇生され、県立宮崎病院に救急搬送され一命をとりとめました。最終的には宮崎大学附属病院第1内科に転入院し、ICD埋め込み術を行っていただきました。その後ICDが複数回作動して入院になったのは1回だけでした。      
 父は何の問題もなく米寿を迎えたかの様にみえましたが、2020年5月、自分が歯肉の癌かもしれない事を他人事の様にさらっと明かしました。生検の結果は本当に癌でした。父は半年前にも生検を勧められ、様子をみたいからと断っておりました。癌なら癌でもいいとその時は思った様です。父は自分の体調を毎日パソコンに記録し、2~3ヶ月おきに血液検査を行い、栄養のバランスを考えながら食事を摂るなど健康には気遣っており、生きる事への執着は人一倍強い様にみえましたが、母が5年前に亡くなってからは、綺麗に死ねるならいつでもいいと言っていました。2020年6月、大学附属病院口腔外科で精密検査があり、癌は下顎骨まで浸潤しており、頸部リンパ節への転移もみられました。リンパ節郭清まで行って根治術可能とのことでしたが、生検後の痛みですら眠れなくなる程だったので、術後、痛みや摂取機能障害で普通の食事が摂れなくなることは容易に想像できました。父は歯肉癌に対する一切の治療を断り、以後歯科口腔外科で診てもらう事はありませんでした。それから3か月後の9月までは鎮痛剤で痛みは抑えられ、肉好きの父とステーキや焼き肉、牛丼などを食べに行きました。目の前で美味そうに肉を食べている父が1年後にはもう居ないのかと思うと寂しく、一緒にいる時間がとても貴重に思えました。普段はしかめっ面の多い父も昔話になると饒舌になり楽しそうで、初めて聞く話も沢山ありました。おそらく父が癌にならなければこうした時間は持たなかったかもしれません。10月に入ると鎮痛剤で痛みを抑えることが難しくなり、食事中にむせることも多くなりました。11月3日文化の日、私が父の様子を見に行くと父は、不安気な顔でひげは伸び、パジャマのズボンの前を開けたり閉めたりしています。私が父に、どうしたいのか聞いてもうつむいたまま同じことを繰り返すだけです。パソコンを開いてもマウスを動かすだけで何も入力できません。私は父の手を引きソファーに座らせると痛みの事を聞きました。「薬が効かない。昨日はほとんど眠れなかった」。やっと正気に戻ったとほっとしていると、何やら意味不明なことを言いながら笑います。昨日までの日記は書けていたので、せん妄になったのは昨夜からで、痛みで一晩中眠れなかったことが誘因になったのかもしれません。私が「明日は緩和ケア病棟に入院しようか?」と言うと父は「そうだな。偉そうな事を言ったけど、そうそう恰好良くはいかんな」。父は6月に手術の説明を受けた後、私に「免疫力をアップして癌を治してみせる」と豪語しておりました。父はそのことを恥ずかしそうにしながらも、入院することを承諾してくれました。
 11月4日、父は潤和会記念病院の緩和ケア病棟に入院しました。私は仕事を終え、父の見舞に行くと、最初の頃は嬉しそうでしたが、その後徐々に痛みは増し、体もきついのか、苦痛様の表情をしていることが多くなり、見るに忍びない日が続きました。せん妄も悪化し、会話も難しくなりました。しかし、主治医の押川先生や病棟スタッフみなさんのケアのお陰で、最後の数日は穏やかな顔になり、特に亡くなる前日は故人の妹と会い、嬉しそうな笑顔がみられました。
 葬儀はコロナ禍にあり、家族葬で執り行いました。静かに、厳かに、ゆっくりと父を見送りました。年が明けると新型コロナの感染はさらに拡大し、宮崎県のコロナ感染者は1日100人を越えました。1月10日、四十九日の法要は、住職と妻と私の3人だけでしたが、お茶を飲みながら、父の思い出話は尽きませんでした。
 私は今、仏壇の前で手を合わせ、笑顔の遺影を見ながら「どうだ最近、コロナ疑いの患者さんは来たか?」などと、もう決して声をかけてもらえない寂しさを身に染みて感じています。
 最後になりましたが、父が生前にご厚誼を賜ったこと、故人に代わって厚くお礼申し上げます。そしてまた、この長文を最後まで読んでいただいた方に感謝致します。
                    山脇内科小児科医院院長  山脇 清一

 朝、時間がなくて宮日日新聞をちょい読みする時でも必ずしっかりと目を通すところがある。最後の紙面にある「あなたの運勢」と途中の紙面にある「きょうの運勢」だ。特に「きょうの運勢」には健康、金銭、異性の3項目があり、それぞれに○や△がついている。朝から体が重くても3項目のいずれかに◎がついていると期待感で体が少し軽くなる。以前は◎がついているのに福運がないと、もう信じるものかと思っていたが、福運は自ら動いて引き寄せないとつかめないと思うようになった。
 いつまでも若くいるためには生活をマンネリ化させない事らしい。日々の仕事を漫然と繰り返しているだけでは幸運も訪れない。
 先日の運勢は「笑う門に福来る。笑顔が福運をさらに増大」。
 マスクを付けたまま笑顔をつくるのは難しい。特に細い目の私には。ならば、笑いを誘うような話ができないか。口下手で笑いのセンスがない私には急には無理なことだ。何か良い方法はないものかと考えている内に1日が終わってしまった。
 がしかし、こうしてコラム欄に載せることによって、1人でも笑ってくれる方がいらっしゃれば、それが私にとっての福運だ(笑)。

 昨年はインフルエンザと新型コロナの同時流行を懸念し、早々にインフルエンザワクチン接種したが、今のところインフルエンザ患者は全国でも数えるほどしかいない。
 いくつかの理由が考えられており、そこにコロナ駆逐のためのヒントがあるかもしれない。

 仮設1. マスクや手洗いが功を奏した。

 仮設2. 南半球を主とした海外との人的交流が減少したため。

 仮説3. 早い時期から広くインフルエンザのワクチン接種を行なったため。

 仮説4. 「ウイルス干渉」 体内の細胞がウイルスに感染すると、他のウイルスに感染しにくくなる。

 中でも有力な説は「マスクや手洗い」。コロナに通用しないのは、飛沫や接触以外に感染経路があるのだろうか。医師・看護師が目からの感染を防ぐために用いているゴーグルも必要なのか。マスクはウイルス粒子を濾過するフィルター機能を有する医療用マスクをもっと推奨すべきではないか。
 新型コロナは年が明けてからも手を緩めることなく感染を拡げている。不安におののく人間をあざけ笑うかのごとく。不安ゃストレスが募ると相手を思いやる余裕がなくなる。ここは試されていると思い、今一度、冷静な対応と分析が必要かと思われる。

新型コロナの第3波は留まるところを知らず、宮崎でも医療崩壊を招きつつある。
しかし一方では、武漢で最初の新型コロナが確認されてから1年が経ち色々な事がわかってきた。

新型コロナ感染者の2~3割は無症状。
約半数は軽症で自然治癒する。
約20%は肺炎などを来たして入院が必要となる。
そして5%の方は重症化し、その内2~3%が死に至る。

この様な状況の中でかかりつけ医の役割は何だろう。

重症・中等症の方はベッドがないので診ることは出来ない。
無症状の方は受診されないので対象外。
治療対象となるのは必然的に軽症の方となる。
その中でハイリスク群(70歳以上、著しい肥満、糖尿病、慢性腎臓病など)をピックアップし、しっかりと診断し入院施設を持つ医療機関と早めに連携をとり重症化を防ぐことである。

新型コロナの感染は飲食店や会食、家族、職場などマスクをはずす機会に多いこともわかっている。
無症状者からの感染拡大を防ぐにはとにかく人前ではマスクをはずさないことだ。
最後に、宮崎の医療崩壊を招かない為に一致団結した協力をお願いしたい。

父が亡くなり2週間が経とうかという頃、親戚や知人からお電話をいただいた。
父からお歳暮が届いたという。

父は約半年前に歯肉がんの宣告を受けた。
癌は骨まで浸潤しており、リンパ節への転移もみられた。
根治を目指した手術を受ければ、今のようには食べられなくなるかもしれない。
父は延命より生活の質を選び、その後癌に対する治療は受けなかった。

父は、なるべく癌の事は忘れて、免疫力をアップするために笑って過ごせる様な生活を送ると言っていたが、一方では終活もしていたのかもしれない。

父の様態が悪くなり入院した日の夜、私は仕事が終わり1人タクシーに乗り病院へ向かった。運転手が「お父さんを4日前に百貨店まで送りましたよ」と教えてくれた。
父が亡くなり書類を整理していたら、お歳暮の注文書の写しを見つけた。
注文書の日付けは入院4日前だった。

臨終の身でありながら贈ってくれた有り難さと、もう今は居ないはずの父の名前を送り主欄に見て、何とも切ない気持ちになり、涙がこぼれたと従兄弟の1人は話してくれた。

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